RAIL ARCHIVES JAPAN 記憶の彼方へ。失われゆく鉄路の記録個

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蒸気機関車はなぜ退場したのか

蒸気機関車の終焉は、しばしば「非効率だったから」「時代遅れだったから」といった抽象的な言葉で語られがちです。しかし、日本国有鉄道(国鉄)が蒸気機関車を廃止した理由は、そうした感覚的な評価ではありませんでした。国鉄は蒸気機関車を一つの「輸送装置」として捉え、数値によって評価し、他方式と比較したうえで、経営政策としてその撤退を決定しています。

本稿では、国鉄が残した年史・白書・統計資料に基づき、蒸気機関車が当時どのような客観的評価を受けていたのかを整理していきます。

両数のピークと「誤解されやすい事実」

国鉄の蒸気機関車在籍数が最大となったのは、一般にイメージされやすい1950年代ではありません。
1946年度末(1947年3月)の5,958両が公式統計上のピークです。この数値は国鉄の公式資料で確認できる事実であり、「1950年代が蒸機の黄金期だった」という通説とは、やや距離があります。

ここで注目すべきなのは、「保有車両数のピーク」と「運用のピーク」は一致しないという点です。

1950年代に入ると、新製蒸機はほぼ止まり、老朽機の廃車によって在籍両数は徐々に減少していきます。一方で、蒸気機関車の実際の負担を示す指標である機関車キロ(運転距離)を見ると、1956年度に約2億8,690万kmという戦後最高値を記録しています。

つまり、数は減りながらも、残った蒸気機関車をより長距離・高頻度で使用することで、戦後復興期の輸送需要を支えていたことになります。

この事実は、「蒸気機関車は早々に時代遅れとして見限られた存在だった」
という見方を明確に否定する、重要な史実と言えるでしょう。

性能限界ではなく「システム上の処理能力」の限界

蒸気機関車は、牽引力という点において、決して劣った存在ではありませんでした。
D51形をはじめとする貨物用機関車は、戦後復興期の大量輸送を十分に担える能力を備えていました。

しかし、国鉄が問題視したのは、機関車単体の性能ではありません。
焦点となったのは、線区全体としての「処理能力(スループット)」でした。蒸気機関車は、その構造上、次のような制約を避けることができません。

  • 走行途中に必要となる給水・給炭・灰処理に伴う停車
  • 機関区での長時間に及ぶ保守・整備作業
  • 機関士と機関助士(投炭担当)を前提とした乗務体系

これらは技術力の不足によるものではなく、蒸気機関という方式そのものが持つ特性です。

過密ダイヤを安定的に維持し、人件費を含めた総コストを抑制していくためには、この輸送システム自体を刷新する必要がありました。

無煙化は「思想」ではなく「緻密な計画」

1950年代後半、国鉄は「動力近代化」を単なる方向性ではなく、段階的な経営計画として具体化していきます。その象徴が、1959年(昭和34年)6月にまとめられた「動力近代化委員会」報告書です。

この中で国鉄は、電化およびディーゼル化を主軸とすることを明確にし、「1975年度までに蒸気機関車を全廃する」というロードマップを打ち出しました。

これは一時的な思いつきではなく、当時のエネルギー政策、労働環境、輸送需要の将来予測を踏まえた、極めて合理的な経営判断でした。その計画通り、1975年(昭和50年)をもって、国鉄の幹線における蒸気機関車の定期運用は姿を消すことになります。